僕は、風景写真や人の写真を撮ることが多いのだけれど、ふとしたきっかけで犬、猫、鳥などの動物の写真(その動物が主人公なので動物のポートレートと呼んでいる)を撮影することもある。
動物は風景と違って自分の意思で動くし、人間と違って言葉で細かなポーズをお願いすることもできないから、撮ろうと思っていつでも撮れるわけではないけれど、ときには、不思議と僕の目の前にとどまり、何かを訴えているかのようにこちらを見て、素敵な表情を見せてくれることがある。
そんなときにカメラを持っていれば、思わずその場面を切り取りたくなって撮影することがあるんだ。
そんな中でも、とても深く、かつ明瞭にコミュニケーションをとることができたと感じた動物(ワンチャン)の写真を撮影したことがあった。
ururuという名のこの子(といっても人間年齢に換算すれば相当なおばあちゃん)に出会ったのは約5年前。
森の一軒家に住む素敵な友達の飼い犬で、狼の血を引く、とても賢く、落ち着いていて、人懐こい子。
何度かそのお宅へ遊びに行って、仲良くなり、何枚も写真を撮った。
「可愛いな」「素敵だな」「イケてるな」と感じるたび、ただ無性に撮りたくなって。
2年くらい前だったと思うけれど、このワンチャン、お年のせいか、まれに室内でウンチをしてしまうようになった。
ちょうどそんなタイミングでお邪魔して泊まらせていただいた朝、僕は気づかないままリビングでそのウンチを軽く踏んでしまった。
その後、同じリビングの椅子に座って飼い主とウンチ事件の話をしていた時、部屋の向こう端にいたこのワンチャンが、トコトコと僕のそばに来てこちらを見上げたかと思うと、「部屋でウンチしちゃってゴメンなさい」と言って、僕の足元にぺたんと座り、ほんとうに申し訳なさそうにうなだれた。
そう、僕は間違いなく、「部屋でウンチしちゃってゴメンなさい」という声、それは音声ではないダイレクトなメッセージだったけれど、まるで声を聞くような言葉を感じ取ったのだ。
その声は飼い主にも聞こえたらしく、僕たちは思わず顔を見合わせて、「今、ゴメンって、言ったよね!」、「うん、言った!」と、この奇跡を確認し合った。
そしてワンチャンの方を見ると、彼女も僕の方を見たのでバッチリ目が合って、「私の気持ち、わかってくれたのね」、「やっぱり間違いなかったんだね。よくわかったよ」という会話(これも音声ではないテレパシーのようなものだけれど)を交わした。
もちろん、動物とコミュニケーションが取れることはわかっていたけれど、ここまでクリアに気持ちを通じ合わせたのは初めてで、動物はいろんなことを考えたり、感じたり、発信したり受信したりしているのだということをはっきりと知る、貴重な実体験だった。
そしてその時から、このワンチャンの僕を見る目が変わった。
「この人とは分かり合えている」という友達同士の信頼感みたいな気持ちが、僕を見る目に現れているように感じられ、僕の中にもこのワンちゃんに対するまったく同じような気持ちが根を下ろした。
約1年前、このワンちゃんは飼い主たちの愛情に包まれながら、静かにこの世を去った。
でも、あらためて、生前に撮った彼女の写真を見つめていると、なんだか今でもそこにいて、いろんなことを考えたり、感じたり、訴えたりしているような気がしてくる。
自分で言うのもなんだけど、そこに彼女の心が写っていて、写真の中で息づいているように感じる。
僕の心と響き合った彼女の心。
だから、お互いの心を写していると言ってもいいかもしれない。
僕にとっては、人のポートレートも、人間以外の生き物のポートレートも、さらに言えばモノや風景の写真も、本質はみんな同じ。
お互いのハートが響き合ったときにしか現れない、存在の美のようなものを感じることこそが最高の喜びで、それがあってこその僕の写真なんだ。
最近、このワンチャンを偲んで開催されたスタジオKURIでのイベントで、僕が撮った写真を展示させてもらって、そんなことを感じました。
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