大好きな、美しいお寺の庭園がある

そこは、お寺の庭園にしては珍しく、「撮影禁止」になっている

初めてそこへ足を踏み入れたとき、なぜ撮影禁止になっているのか、わかるような気がした

そこは、外の世界では感じられない、きわめて神聖な雰囲気に満ちていた

遠い昔にタイムスリップしたような感覚

存在するものすべてに宿る精霊、魂、もっと言えば神が、間違いなくそこにいると感じられる、生き生きとした、明るい空気感

「神聖」と言っても、緊張感を呼び起こすものではなくて、存在することそれ自体の喜びが湧き上がるような、ウキウキした気持ちが、体からはみ出るくらいに膨らんで、その場と一つになる感覚

神聖な場所が撮影禁止になっているのは、これがあるからだと思う

先日、それを実感することがあった

庭園の中央にそびえるメタセコイアの大木を眺めながら、この神聖な空気感を味わっていたとき、二人連れの女性が、無神経にもスマホでそこら中の写真を撮り始めた

その瞬間、聖なる存在の輝きはいっぺんに色あせ、ありきたりの綺麗な風景に様変わりしてしまった

写真を撮られると魂を抜かれると言うアフリカの部族がいるらしいが、確かに、そういうこともあるかもしれない

精霊は、その存在を無視して写真を撮られるのを嫌う

それは、他人が住んでいる家に、あたかも誰も住んでいないかのように土足で上がって傍若無人に歩き回るのに似ている

住人が、「この人には私が見えていないのだ」と思えば、危険を感じて身を隠すのも当然だろう

聖なる存在の輝きは、それを感じて、共によろこびを分かち合う相手にしか、撮影を許さない

その代わり、撮影を許してくれた時は、その写真の中に、目に見えない輝きをも写し込んでくれるのだ

そう考えると、風景写真も、人物写真も、みんな同じだと思う

目に見えない存在の輝きを感じて、その喜びを分かち合うことが、僕の写真の原点

小笠原諸島南島