ネパールで犬に襲われたエピソード
スカイマーク機内誌「空の足跡」に毎月連載している旅エッセイ、「ユウキが行く。」。
7月に出されたテーマは、「病気・ケガ」でした。
僕は、ネパールで野犬に吠えられて逃げ出し、転んで頭を打ったエピソードについて書きました。
そこでは、ことのあらましをご紹介し
都会暮らしにはないリアルな冒険ならではの充実感が、野生のたくましさを呼び覚ましてくれる
という実感について触れています。
しかし、その実感に関する記述は、いろいろ端折っていてわかりにくいところがあると思うので、少し補足します。
都会暮らしは自然から切り離されている
まず、都会暮らしは快適だけれども、自然から切り離されていて物足りないという点について。
例えば、野犬がいないと
襲われたり、狂犬病の危険に晒されたりすることがないので、安心して歩けるという大きなメリットを享受できます。
しかし、反面、飼い慣らされていない動物の扱い方について、実地で身につける機会がありません。
もし、身近に野犬と接していて、どうすれば襲われないか、襲われたらどうしたらいいか、知識や経験を持っていれば
必要な心構えと注意はしますが、必要以上に恐れることはなくなるはずです。
それは、自分の力で生きる自信、充実感につながります。
自力で生きる自信の欠如
知識や経験がない物事に対しては、イメージだけの恐怖が膨らみやすいもの。
だから、短絡的に「撲滅してしまえ」「駆除してしまえ」とか
逆に「近寄るな。触れるな。関わるな」とか
とにかく極端な防衛措置に走りがちです。
それは、個としての自分の力で生きる自信が欠如していることの表れでもあります。
日々、野生生物との接点があり、そこで身を守り、食糧を確保しながら生きていたならば
個としての自分の力で生きている実感、自然と共にある充実感を感じることができるでしょう。
これに対して、そのような接点なしに、文明の利器、国や自治体の力によって守られている状態では、依存的な精神状態に陥りがち。
自分自身の力に自信が持てず、心配しがちで、国や自治体に「ちゃんと守れよ」と要求し、他者にクレームをつけるような傾向が強くなります。
社会生活上、そういうことにも意味があるのはもちろんですが、ここではもっと根源的な「あり方」についての話をしています。
過剰な自己保身とは
次に、防衛本能が自己保身に姿を変えているという点について。
原始時代から人類を生き延びさせてきた防衛本能は
自然と身近に接する状況ではうまく機能しますが
現代の都会の生活では、本来の働き方をする機会がなく
不必要あるいは過剰な反応をしているようです。
その一つが、組織や社会における過剰な自己保身ではないかと感じます。
本当は、人類の歴史上、生存していくことが極めて容易な社会に生きているのですが
なぜか、多くの人が
「お金を稼がなければ生きていけない」
「生きていくために働いて稼がなければいけない」
という呪縛に囚われ
仕事が生存の必要条件だと思い込んでいるように感じます。
それに、「職場や社会から評価されなければならない」「競争に勝たなければならない」という刷り込みが結合し
組織内での立場みたいなものが生存そのものに関わる重大事のように感じられてしまうわけです。
それが、過剰な自己保身になって、さまざまな歪みとストレスを生じさせているように感じます。
死の恐怖体験の意味
このエピソードを経験した当時、一番強く感じたのは、「死の恐怖体験」が生に与える影響についてでした。
しかし、それについては、紙幅の関係上一言触れただけです。
ここでいう「影響」というのは、いわゆるトラウマ的な影響ではなくて
死を意識して生きることの重要性、恐怖の正体を知ることの重要性につながる前向きなものです。
これについては、別のところで触れている部分もありますし
このブログの中でも、別の機会にもう少し詳しく述べることができたらいいなと思っています。
スイーツの街、福岡への感謝
エッセイとは関係ありませんが、機内誌7月号は福岡のスイーツを特集しており、その取材写真は僕が撮影しました。
取材の中で試食したスイーツの美味しさは感動的で
あらためて、福岡の食文化の素晴らしさを実感しました。
取材させていただいた方々の心意気にも感じ入るところがあり
こういう方々の存在が、あの福岡の美味しい食文化を作ってきたのだと思うと
ありがたくて涙が出そうになりました。
福岡の食文化が、明るく、前向きで、温かい福岡の街を作り
その街で勤務していた約8年前の僕の心を揺さぶり
検事の仕事を辞め、本当の自分を生きる決心をつけさせてくれたのだと
因果の糸がつながったからです。