スカイマークの機内誌「空の足跡」で毎月執筆している旅エッセイ「ユウキが行く。」
2024年2月号のテーマはトイレ事情でした。

僕は、「やりすぎ?」というタイトルで書かせていただきました。日本のトイレと比較した感想みたいなものですね。

海外のトイレ事情との比較

日本の公衆トイレが世界的に見て抜群に清潔なのは有名です。
これは本当に気持ちよくて、ありがたいこと。
しかも、温水洗浄便座(ウォシュレット)がどこでも標準装備されているのはおそらく日本だけ。
日本ほどトイレにこだわっている国はないのではないでしょうか。

これに対して、世界一周の旅では、公衆トイレの多くが有料で、お世辞にも綺麗とは言えず、街中で見つけるのも大変でした。
また、インドなどでは、トイレに置いてある容器の水を使い、手で直接お尻を洗う方式。
慣れないうちは、「やっぱり日本はいいな」と感じました。

日本の素晴らしさと違和感

しかし、慣れてくると、ちょっと違う思いを抱くようになりました。
「これで十分じゃん?」「逆に、日本のこだわりはちょっとやりすぎじゃない?」などと。
確かに利用者の利便性と快適さを追求するのは、日本の良さであり、素晴らしいこと。
けれど、それが当たり前みたいな感覚になると、その水準に達しないことに不満を感じるようになる。
さらには、当たり前じゃ満足できなくて、もっと上を追い求めるようになる。
そうなると、だんだんデメリットが大きくなってくるのではないか。
例えば、一定の水準を維持するためのコスト。それに携わる人々の負担など。

「必要不可欠ではないが、あると便利なもの」を増やしていくことは、文字通り利便性や快適性の向上に役立つとは思います。
それに、経済を拡大させ、数字上の豊かさにつながるのかもしれません。
そして、文化の創造、文明の発展にも。
しかし、何か引っかかるものを感じるのです。
「それが真の幸福、真の豊かさにつながっているのだろうか」と。

最低限の方が最高?

慣れないバックパッカーをしてみたり、今、自然と共にある暮らしを少しずつ実践してみたりしていて感じことがあります。
それは、ただ生きることだけを考えて活動しているときほど、生きているだけで幸せいっぱいだということ。
ただ生きることというのは、食べること、雨つゆをしのいで寝ること、寒さ・暑さで死なないようにすることなど、本当に生命を維持する基本的な活動そのもののことです。
逆に、衣食住が十分足りていて、生きること自体には心配がないとき(日本の一般的な状態)は、むしろそうであるがゆえに、「それだけでは生きている意味がない。価値を証明しろ。何者かになれ。もっと社会に役立つことをしろ。もっと有意義に生きろ」という誰かの声に急き立てられがち。
そういう状態だと、なかなか幸せいっぱいな気持ちになれないのです。
幸せのハードルを、無駄に高くしている。しかも、そこに届きそうになるたびに、ハードルがどんどん上がっていく感じです。

目的と手段の不一致

僕はかつて、人は皆、幸せになろうとしており、そのために頑張っているのかと思っていましたが、それは大きな勘違いだったのかもしれません。
幸せになるという目的のためには、頑張るという手段は不適切な気がするのです。
なぜなら、幸福感は、満ち足りていると感じたときに訪れるもので、ただ生きているだけで満ち足りることができるなら(それができるわけですが)、それが一番簡単。誰でも、今すぐ幸せになれるものだからです。
それに対して、社会的な成功、何かを成し遂げ達成感を得る、といった目的のためであれば、頑張るという手段は有効です。
したがって、幸せになりたいにもかかわらず、「成功しなければ幸せになれない」「成功すれば幸せになれる」と勘違いして頑張ることは、目的と手段が噛み合っていないと思うわけです。

まあ、実際はそんなにスッキリ区別できるものではないのでしょう。
達成感を得ることの中にも幸せはあります。ただ生きるだけでなく、その人なりにより良く生きようと努力する姿は美しく、感動的です。
また、成功しようと努力するプロセスを経てみなければ、その限界も見えてこないので、頑張ることも、頑張らないことも、すべて経験すべきことだということもできます。
結局、人生全体として、それぞれのタイミングでどういうバランスを取るか。その人個人が、本当に自分の望むバランスを取ろうとしているか。ということが大切なのかもしれないと感じています。

しかしそれも、後から考えてようやく見えてくることが多いですね。何が正解ということもないので、その時々を、心の声に従って生きていくことしかできないし、それでいいのかもしれません。