毎月執筆している旅エッセイ「ユウキが行く。」。2024年3月号のテーマは「インドの不思議体験」でした。
「トラウマ」というタイトルで書いたのは、インドで野良犬に吠えられるようになった恐怖について。
そこで書いた内容のうち、二つの点について補足します。
1 「トラウマが深まる」
一つは、「トラウマが深まっていく」ことについてです。
犬による場合
僕の場合、一度、犬に襲われて怖くて痛い思いをしたことで、犬が怖くなりました。
そうすると、なぜか、それまで何ともなかったのに、犬に会うたびに吠えられるようになり、その度に、最初に経験した怖い思いが反射的に蘇って、その時と同じくらいの恐怖に襲われました。
そういうことが繰り返され、「やっぱり怖い」という思い、というか条件反射がますます強固になりました。
怖がるからいけないんだと思い、怖がらないようにしようと心がけても、恐怖から逃げることができなくなりました。
「時間が解決してくれる」という問題ではなかったのです。
忘れた頃に、また犬と出会い、恐怖が蘇るので、そういう場面に出くわす危険がある場所へ行くことすら怖くなりました。
「このまま野良犬天国のインドを旅し続けるのは辛いな」と思っている時に、家族の事情で急遽日本に帰国することになり、内心、ホッとしたのを覚えています。
帰国すると、日本には、ほとんど野良犬がいませんし、狂犬病の犬はまずいないと信頼できるので、安心して出歩くことができるようになりました。
それでも、散歩中の犬に恐怖を感じることもあり、なぜか、そこらの飼い犬から吠えられることも増えてしまいましたので、克服できたとは言い難いですが。
実際のケース
以上は、犬に襲われたというわかりやすい体験を、トラウマ体験として、シンプルに説明したものですが、実際には、そう単純ではないことも多いでしょう。
トラウマ体験を、それと自覚しないまま、原因不明の症状に襲われ続けることもあるでしょうし、複数のトラウマが絡み合って、原因不明の症状が出ている場合もあるでしょう。
次の「発達性トラウマ」は、そういうケースを視野に入れたもので、その主たる症状は「自己の喪失」らしいです。
2 「発達性トラウマ」
2点目は、「発達性トラウマ」についてです。
注意書き
僕は専門家ではないし、この概念について熟知しているわけでもありません。
だから、エッセイの中でそれ自体について詳しく書くことは控えましたし、ここでも控えます。
自分がそれに当てはまるとか、旅のプロセスが克服のプロセスだったなどと書きましたが、それらも、僕の感覚でそう感じたというだけで、本当にそうなのかはわかりません。
ただ、僕はこの概念を知るだけでも救われる部分があったので、こういうものがあるということを紹介することで、僕が過去に経験したような生きづらさを感じている人に知って欲しかったのです。
ピンときたら、ご自身で検索して、調べたり、関連する本を読んだりすると思うので、僕が不正確な解説を加える必要もないでしょう。
生きづらさの原因
生きづらさを感じる人であれば、アスペルガー障害やADHDなどさまざまな発達障害、各種パーソナリティ障害、HSP、アダルトチルドレンなど、次々と紹介される概念を目にしたことがあると思います。
そして、それらを一つ一つ知るたびに、自分に当てはまる部分が結構あるように思えて、「自分の生きらづさの原因はこれではないか」と思いながらも、どれもピッタリこないと感じたことがあるのではないでしょうか。
僕はそうでした。
ありのままで生きられない
しかも、それらを紹介する書籍には、「そういう人が社会に適応するにはどうしたらいいか」という観点でアドバイスするものが多く、標準とずれた「ありのままの自分でいてはダメなんだ」という元々の思い込みを上塗りするようなところがありました。
ようやく最近になって、多様性を積極的に認め合うことを是とする考え方が少しずつ広がり、ありのままで生きることに罪悪感や絶望感を抱かなくても済むような世界が現れてきましたが。
救い
自分が子供のときは、まったく理由がわからず、ただ生きづらいだけだったので、「どうしていつもうまくいかないんだろう」「生きていても苦しいだけだ」とネガティブなループに陥りがちでしたが、その後大人になって、原因らしきものが少しずつでもわかってくると、「自分だけではなかった」と感じて楽になってきました。
そして、発達性トラウマの概念は、発達障害やパーソナリティ障害などよりも、より自分自身の体感にフィットしていて、その症状や原因を全体的に説明してくれている気がしました。
しかも、生来的な要因よりも、幼少期からの外的環境的要因による症状とされているので、「あなたのせいじゃない。仕方がなかったよね」と言われているような気がして、なんだか救われた気がしましたし、「つらかったね」「よく頑張ったね」「よく生きてきたね」と過去の自分を慰め、褒めてあげたいような気持ちになることができました。
もちろん、現時点でそういう気持ちになれたのは、それまでの「自己を取り戻すプロセス」によって、自己理解と癒しと浄化が相当程度進んでいたからだと思います。
その意味で、このプロセスを歩むきっかけを与えてくれた人々、歩みを助け、進めてくれた人々は、僕の魂の命の恩人であり、それらの人々には、いくら感謝してもしすぎることはありません。